「北の国から第1話」を見て

 第1話でとりわけ印象に残ったのは、純と蛍の違いだ。純は、北海道での暮らしに文句ばかり言い、「母さんについていけばよかった」と過去を振り返り、また、頼りない父親に失望を募らせている。それに対し、蛍は、北海道での暮らしをすぐに受け入れ、前に進もうとしているのみならず、父親の罪の意識を和らげ、いやそうとまでしている。ここに、男女の精神性の決定的な差異を感じた。男は、後ろを向いて、過去を解釈するために今を生きる。それに対し、女は、過去にとらわれずに、未来のために今を生きる。この違いが、この小さな兄弟の中に見て取れるという脚本は面白いと思った。また。また、ある種の成長過程として、男は父親に失望すること、女は父親を受け入れることが必要なのかななどと思った。ドラマの話から少しそれるが、上のように考えると、男に筋肉があり、昔から外で働くのは男だったということは少し不思議な感じがする。切り替えが早く、前を向くことができる女のほうが外で働くのに向いている。つまり、お互いに性格に合わないことをやっているのである。なぜこのような矛盾を神様は人間に埋め込んだのだろう。あ、そうか。もし女性が筋肉もりもりで、外に仕事に出かけれるなら、男はいらなくなって捨てられちゃうのか。確かに、力仕事が少なくなり、女性が働きやすくなった現在、男は捨てられていってる気がする。。。

 また、「田舎」の描き方という点では、とてもディテールが細かいと思った。親戚のおばさんの、あのいきつぎなしにしゃべる感じが、最初は、劇団臭くていやだなと思ったが、よく考えてみると、田舎のおばさんって、あのぐらい、劇団員並みの厚手離してくるよなあと思いだした。また、岩城滉一の絶妙な滑舌の悪さや、岩城滉一の彼女の、五郎に彼女として紹介されるときのあのうれしそうな感じも田舎感の演出に一役買っている。ただ、この時点では、田舎の人々は「いい人」として描かれており、今後、田舎の人間関係の「負」の部分も描かれるのかは気になるところである。

 それにしても、このドラマは、田中邦衛を筆頭に、聞き取りやすさなど度外視で、ニュアンスの芝居をする役者がとても多い。これも、このドラマの根幹であると思われる自然主義リアリズムの一つの表れなのかもしれない。

 このドラマは、浮かれ切った80年代の日本に、ただ単に反動的に、土着的なものへの回帰を提示しただけなのか、それともそれ以上のテーマ性を持つのか。第2話目以降も楽しみである。